ガーゴイル』とは別方向。
すごいものを観た。という気分なのだけれど、自分の思ったことを言及しているところがちょっと見当たらなくて、違うのか、いやそれとも……、と思いながら書いてみます。原作とか旧作とか見てないので、どの辺りまでがティム・バートンのオリジナルかわからないんですが。ネタバレするんで空けます。









これは『シザーハンズ』の裏じゃないのかな、と思った。オープニングの映像なんかすごい似てる。以下、『シザーハンズ』のネタバレもします。あと『チャーリーとチョコレート工場』に純粋に感動した人の気持ちを踏むかもしれないので先に言って置きます。
雪と原色とシンメトリー。ただのセルフパロディと言われたらその通りかも知れないけど、互いが互いを皮肉る存在として創られたように思った。『シザーハンズ』は正直救いのない話だと認識してるんですが、『チャーリーとチョコレート工場』のほうも別の方向に救いがない。チャーリー以外の四人の子供(+親)ってのは、一般というか、いわゆる普通の、異形以外の存在で、「いやな子供だなぁ」と思うも、そこまで大袈裟ではないけれど自分にもある部分で、そういった意味で、自分も含めた一般の人間だと思う。ウォンカはそのままに異形で、四人は異形であるウォンカ受け入れない。ことあるごとに反発し小馬鹿にした態度をとる。その四人をウォンカは駆逐していく。無邪気に残酷に。唯一、チャーリーだけがウォンカを受け入れる態度をとり、ウォンカはチャーリーのみ駆逐しない。チャーリーは「素直で真っ直ぐで家族を大事にする子供」であって、それは正直、空想の中にしかいないような存在だと思う。言い過ぎ?
シザーハンズ』は乱暴に言うと「独りだったエドワードという異形が人と触れ合い、また独りになる」話だと思います。『チャーリーとチョコレート工場』は「独りだったウォンカという異形が人と触れ合い、そこで"素直で真っ直ぐで家族を大事にする子供"という"異形"を見つけ、ともに生きる」という話ではないか。
ウォンカが父親に会いに行ったとき、父親はウォンカの新聞記事をスクラップしたり壁に張ったりしているのに、ウォンカの歯を見るまでウォンカに気づかなかった。気づいた父にウォンカは抱き締められるのだけれど、それはウォンカにとって救いであり、同時に絶望だったのではないか。次のシーン。チャーリーの家。家族。その中にウォンカの父はいない。
僕はこれを「感動の物語」とは観れなかった。ティム・バートン自身の、無邪気で残酷な異形振りを観た気がした。思い入れ強すぎかなぁ。
最後の「箱庭の中で作り物の雪が降っている」シーンとか、本当にぞくりとした。