http://d.hatena.ne.jp/orangestar/20070212/1171253365
二つ仮説を思いついたので。

  • 「飛影はそんなこと言わない」説

僕は小説を読むとき、わりと漫画的な絵を思い浮かべてたりします(僕はライトノベル読みですがこれはライトノベルに限らずで)。人によっては映画的な映像だったり、全く何も思い浮かべなかったりするでしょうね。
僕の場合は文章→漫画に脳内変換しているわけですが、例えばその変換先が特定の誰かだったり、好きな、というか、まあぶっちゃけイケメン俳優・アイドルだったりする場合は、細かな描写の部分が邪魔になったりするんじゃないかなと。
他の(ケイタイ小説以外の)小説を脳内変換で読んでいくと、「○○はそんな仕草しない」「××にそんな癖はない」「飛影はそんなこと言わない」*1って感じになってしまう。それでいちばん邪魔にならなかったのがケイタイ小説。「脳内で俳優を動かす」のを楽しむわけだから、「文章も物語も同じことを相変わらず繰り返しているだけ」のほうがむしろいい、という説。

  • 脳内創作説

上手く説明できるかどうかわからないんですが。
創作ってのはけっこう楽しい。ただそれを形にする、文章にしたり絵にしたり映像にするのに労力がかかる(僕はネットの文章しかやったことないのでそれ以外についてはよくわからないんですが)。だから脳内でやる。例えば映画を観ていて、自分ならこうする自分ならこういう台詞を喋らせるとか、誰しもそういうことを考えたことがあるでしょう。ないですか。
ケイタイ小説は、媒体としてあるんじゃないかなと。脳内創作においてのテンプレや素材としてあるという感じ。上のと被ってますが。


まあ二つとも理由としては弱いですけどね。

*1:「飛影はそんなこと言わない」と書きたかっただけらしい。